2006年01月19日

沖縄本島 大宜味村の観光案内

北部地区(恩納・名護・本部・伊江島)の
宿泊施設一覧


  
観光情報
0

 「長寿の里」「シークヮーサーの里」「芭蕉布の里」「ぶながやの里」として知られる大宜味村。中でも日本一の長寿村として、豊かな自然の恵みを生かした伝統ある食文化などが、多くの注目を集めています。

 大らかな自然に囲まれた大宜味村はまさに「沖縄の桃源郷」なのです。

0
0
マイカー又はレンタカーでは

 ・ 県都那覇市から北へ87Km、国道58号を通って
   約2時間、高速を利用して約1時間30分。
 ・ 名護市街(市役所)から22Km、約30分。

バスでは

 ・ 那覇市から名護バスターミナルまで、
    20番系統名護西線で約2時間。
   名護バスターミナルから、
    役場前(大兼久バス停)まで67番系統
   辺土名線で約45分
   (沖縄バス・琉球バス)

長寿の里
0
0日本一長寿の沖縄県、沖縄一長寿の大宜味村、我々大宜味老人は
自然の恵みにその糧を求める伝統的食文化の中で、長寿を全うし、人生を謳歌している。
0
碑
0
「日本一長寿宣言の村」の碑
0

「長寿日本一」宣言

80(歳)はサラワラビ(童)90(歳)となって迎えに来たら、
l 00(歳)まで待てと追い返せ
我らは老いてますます意気盛んなり、老いては子に甘えるな。
長寿を誇るなら我が村に来れ、
自然の恵みと長寿の秘訣を授けよう。
我が大宜味村老人はここに
長寿の村日本一を高々に宣言する。

平成5年4月23日 大宜味村老人クラブ連合会
0
ぶながやの里
0

 私たちの大宜味村の森や川には、今ではここにしか生息しなくなった
「ぶながや」が棲んでいる。

「ぶながや」は、平和と自然を愛し、森や川の恵みを巧みに利用し、時折私たちにその姿を見せてくれる不思議な生き物である。

 第二次世界大戦以前は、沖縄のほとんどの村々で暮らしていた「ぶながや」たちは、激しい戦禍と基地被害、戦後復興の近代化に耐えきれず、かつてのふるさとを離れ、20世紀最後の安住の地を求め、豊かな自然と人々の肝清らさにひかれ、大宜味村に命を永らえるようになったという、希少種族である。

 私たち村民はこれまで、戦争につながる一切を認めずにくらしてきた。それが平和な国際社会を築くことに大きく貢献していることにいささかの誇りをもち、その気持ちを21世紀に向け、内外に発信したいと考えている。それは「ぶながや」たちが、私たちに語ること無く教えてくれてきたことだと気づくようになった。

 私たち村民は、村制施行90周年にあたり、「ぶながや」たちと生きてきたことに誇りを持ち、これからもこの大宜味村の豊かな自然の中で共生し、平和で文化の薫り高い豊かなむらづくりに取り組むことを決意し、ここに「ぶながやの里」を宣言する。

1998年7月24日 沖縄県大宜味村ぶながやの里宣言
0
宣言1
宣言2
シークヮーサーの里
0
シークワーサー木 0 大宜味村を象徴する山、ネクマチヂ岳(360m)とそれに連なる石灰岩の山々の中腹でシークヮーサーは生まれ育った。甘酸っぱく、食べ始めると止まらない独特な味は、美容・健康・長寿の源になっている。その黄金の美味は石灰岩の森からの贈りものである。
(左写真:村の木/シークヮーサー)
シークヮーサーを育む大宜味村の山々
0
シークヮーサーとは…
ミカン科、沖縄を中心に原生する小果の寛皮柑橘で果皮が緑色、未熟の間は酸が強く、黄色に熟したものは適度の甘味と酸味がある。
名前の由来は…
シィは酸、クヮーサーは食べさせるの意。
主な栄養とはたらきは…
代謝を活性化させ、疲労回復や美容に効果のあるビタミンCを多く含んでいるほか、ビタミンB1、カロチン、各種ミネラルなども含有するヘルシーな果物。特にノビレチンという成分には、ガンを抑制する作用があることが発見され、長寿との関連が注目されている。
クガニーとは…
シークヮーサーには系統が多く、イシクニブ、フスブタ、タネブト、ミカングヮ、イングヮクニブ、ヒジャークニブ、カーアチー、カービシー、などの他5~6系統あるといわれている。それらを改良したのが クガニーである。熟すと果皮が黄金色になるところから沖縄地方の方言名でクガニー(黄金)と呼んでいる。12月から1月末にかけてが美味。
喜如嘉の伝統工芸
0
伝統1
0

 芭蕉布の製法は、布を織る前に綛を精練する「煮綛(にーがしー)」と、喜如嘉のように布になってから精練するものの2種類に大別される。前者は主に王朝時代、士族の衣装として織られていたが、後者は庶民の夏衣として戦前まで沖縄各地で盛んにつくられていた。

 喜如嘉でも古くから生産されていたようだが、1893(明治26)年に来県した弘前藩出身の役人・笹森儀助の著書「南島探検」以前の記録は残っていない。これには大宜味間切の産品として、木綿飛白(かすり)と並び、芭蕉布(紺地561反、白地249反)が記されている。ただ、当時はそのほとんどが自家用として使われるにとどまり、村外に出荷されることは少なかったらしい。

 その後、1895(明治28)年に仲原ナベという女性が、それまで無地や縞が主流だった芭蕉布に初めて絣柄を採用。また1905(明治38)年には高機が導入されたほか、平良敏子の祖父・平良真祥が自分の娘に花織や絽織の講習を受けさせるなど、技術革新と生産拡大の気運が高まっていく。

 そして1907(昭和40)年、根路銘で芭蕉布品評会が開かれたのを皮切りに、副業として芭蕉布の生産が奨励されるようになる。その背景には、原料の糸芭蕉は生命力が強く、耕地の少ない村に適していたことと、男たちの村外への流出という事情があった。

 もともと喜如嘉には船大工が多く、やがて彼たちは優秀な大工としてこぞって那覇へ進出していった。このため、村に残された女性たちの仕事として芭蕉布が見直されたのであった。

 喜如嘉の芭蕉布は、都市部との接触などを通じて言わば独学で発達していった部分が多く、柄は経絣が主で、特に規格などはなかった。また藍染のできる人は少なく、車輪梅を用いる赤染が盛んに行われた。

0
伝統2
0

 昭和時代に入り、喜如嘉の芭蕉布は品質・生産量共に著しく向上し、村の品評会でも喜如嘉のものは他の部落とは分けて審査されるほどだった。しかし、織り上がった製品は仲買人によって安く買い叩かれ、女性たちは布代の前借り金を抱えて苦しい生活を続けていた。この情況を打開しようとしたのが当時の喜如嘉区長・平良真次である。

 平良区長は1939(昭和14)年に東京三越で開かれた特産物即売会に喜如嘉の芭蕉布300反を出品するなど、生産者に利益を還元するべく販路の拡大に尽くした。

 翌1940(昭和15)年には、彼が代表となって大宜味村芭蕉布織物組合を結成。県の補助を受け、喜如嘉、饒波、謝名城に芭蕉布工場が設立される。工場では八重山や県の工業指導所などから技術者や講師を招いて、新たな技法の研究。開発や新製品の試作などが行われたが、太平洋戦争の勃発とともに中断されてしまった。

0
伝統3
0

 戦時中、本島中南部ほどの徹底的な破壊を免れた喜如嘉では、早くも1945(昭和20)年7月末に、米軍の命令により共同作業の一環として芭蕉布の生産が再開される。職工は総勢69名で、各家庭にあった機を修理して使い、織り上がった布は作業参加者の間で分配されたという。しかし、この工場は台風で倒壊した後、道路建設のため閉鎖されてしまう。

 平良真次の娘・敏子は、戦争中「女子挺身隊」の一員として岡山県倉敷市で働いていたが、戦後、倉敷紡績北方工場に就職する。ここで彼女を始めとする喜如嘉出身者4名は、大原総一郎社長のすすめで元倉敷民藝館館長の外村吉之介に師事。織りや染めの基本を学ぶとともに、柳宗悦の民藝運動に深い影響を受け、1946(昭和21)年暮れに帰郷した。

 喜如嘉に帰ってきた敏子は芭蕉布復興を決意し、戦争未亡人らに生産を呼びかけるが、時は軍作業全盛の頃。需要のなくなった芭蕉布は生業としては成り立たず、苦しい時代が続く。

 こうした逆境の中、1951(昭和26)年に群島政府主催の産業振興共進会で、彼女の作品は1等を受賞。また、1954(昭和29)年の島生産愛用運動週間でも優秀賞を受賞。さらに同年「沖展」に工芸部門が解説されると、彼女はこれにも作品を出展し始め、「喜如嘉の芭蕉布」は優れた工芸品として高い評価を受けるようになった。

 同時に彼女は、隣の饒波地区から材料を大量に仕入れて喜如嘉の女性たちを織り手として雇い、作業の集中化と合理化を進めるとともに、新商品の開発を積極的に行うなど、芭蕉布を「産業」として軌道に乗せる努力も怠らなかった。当時のヒット作には、アメリカ人向けのテーブルマットやテーブルセンター、クッション、本土向けの座布団、帯などがある。特にテーブルマットは、芭蕉糸と同じく喜如嘉特産の藺(いぐさ)を交互に織り込んだアイデア商品で、県内の土産品展でよく売れ、最盛期には100反近く織られた年もあったという。

0
伝統4
0

 1972(昭和47)年、沖縄が日本に復帰すると同時に、芭蕉布は県の無形文化財に指定され、平良敏子はその保持者としての認定を受けた。またその2年後には、国指定の重要無形文化財として、彼女を代表とする「喜如嘉の芭蕉布保存会」が保持団体として認定を受けている。

 こうして沖縄を代表する伝統工芸品として認知されるようになると、本土からの注文も増え、買い取り価格もようやく上がってきた。1978(昭和53)年には、個々の品質格差をなくすため規格を統一し、証紙が貼られるようになる。

 技術者の高齢化と後継者不足により、この頃から生産量は徐々に減少していくが、品質と社会的評価はますます高まり、1981(昭和56)年にはポーラ伝統文化振興財団から第1回伝統文化ポーラ大賞を授与され、記録映画「芭蕉布を織る女達」が制作された。この作品は現在、村立芭蕉布会館で見ることができる。

 1984(昭和59)年には通産省の「伝統工芸品」指定を受けるため、喜如嘉芭蕉布協同組合を設立。その2年後、村立芭蕉布会館が完成し後継者育成事業もスタートした。この会館は生産拠点であると同時に、年間2万数千人が訪れる芭蕉布のPR施設でもある。

 糸芭蕉の用途には芭蕉布だれにとどまらない。「うばさがら(表皮)」は以前から芭蕉紙の原料として使われているが、最近はブーケやしおりなど、ペーパークラフトの素材としてもよく利用されている。また、糸にできない外皮の繊維は「しーさー苧(うー)」と呼ばれ、沖縄各地の獅子舞の獅子の毛として毎年大量の注文を受けている。そのほか、苧炊きに使った後の木炭は焼き物の上薬に使われるなど、その波及効果は多方面に渡っている。

 現在、喜如嘉での年間生産高は約250反。後継者を育てるには時間がかかる上、織り手の高齢化など不安材料は多いが、多くのみなさんのご理解とご支援を得ながら、大宜味村のみならず沖縄が世界に誇れる伝統工芸、喜如嘉の芭蕉布を今後も守り育てていきたい。



このページの観光案内は、大宜味村のHPの資料を参考にさせていただきました。

北部地区(恩納・名護・本部・伊江島)の
宿泊施設一覧

17:33